もう夕方ですね🌆レモネードです🍋✨
昨日は仕事がピークで朝方まで寝ずにお仕事をしていました🥱
昼に一度納品!そのまま気を失う🌀
そして、やっと明日はチョコザップに行ける💪✨と意気込んでいた所、
次の依頼が!
ありがたい!大変ありがたいのだけど!中々外に出れない💦(運動〜!)
そんな中、大学時代の先輩から連絡が来る✉️
気がついたら、展示の時期も近づいている💦
仕事に追われながら家事して、アート作品作るって自分が何人必要だ!?
人格ばかりは一丁前に7名の人材(レモネードA〜V)が揃っているものの生身の人間は一名!
アート対応できる人格は誰だったっけか🙄??
まあ、とにかくアートは命懸けなんだ😅(説得力💦💦💦)
基本的に頭にはラフ案があり、それを現物化するだけの事だが、
鑑賞者にある程度のインパクトを意図しなければならない💦
しかも私は現代アート系(異種混合型ポップアート)なので、人によっては普通にスルーされるだろう。
1割以上の人にはスルーされては絶対にダメなんだ💦💦!
久しぶりすぎて勘も感性も何もかもが鈍りまくっている自分。
しかも自身がデザイン仕様にフォーマットされており、しばらくメンタル面でもキツい事も多くあるのだろうな、と恐れ慄く💦
今日は昼以降、少し余裕ができたので、
改めて「美」とは何か?
について考えてみたいと思った。
実際、先日の親単科で言及された「国語力」を鍛える点で、最も重要な部分は、
「(家族間の)各自の審美眼の共有」
という結論が出た。
そう!各人には漫画、映画、ドラマ、小説、動画、芸術、伝統芸能、音楽どの媒体においても
「ここがいい!」
「この点はこういう意図だ!」
「ここの表現がかっこいい!」
「ここにリアリティを感じる」
「この場面は、もう一度見たくなる」
それぞれ各自の審美眼を持っている。
批評家的な視点を持って分析的に話ができる、という内容だ。
この点が全て丸かぶりする人はいないのだろうが、
ここの審美眼のコアな部分の共有、言語化が「国語力」を最も効率よく育てるという結論に達した。
よく芸術の代表選手として取り立たされているレオナルドダヴィンチやミケランジェロ、ピカソやゴッホ、日本で言うと浮世絵の巨匠、歌川広重や葛飾北斎などなどは、
万人にその審美眼をクリアできる基準を持っており、ある程度の人々に支持されている。
自分自身が、どうすればそのリアリティを享受する側でなく、創出する側になれるか考えた時に最も多くの各芸術の分析的な享受が必要だとも感じている。
審美眼に応える作品を生み出すためには、自分の審美眼を研ぎ澄ます必要があるんだ。
時間は全然ないけど、自分の中で何が美しくて何がそうでないのか?
「国語力」においては、審美眼に足りる物や作品をアウトプットする事で、人と共有する以上に身につく事も多くあるに違いない(小説を書いたり、論文を書くなど)
芸術とは離れた実生活で、
私は「優柔不断」というデメリットを抱えている。
物理的な事に関しては即断できるものの精神的な部分は曖昧になる事がある。
人間関係において判断すべき時に、即断ができずに行動できない事がある🌀
「八方美人」と言われる事もある。
たまに自分の気持ちが分からなくなる事がある。その点はできれば直していきたいと思っている。
しかし芸術においては、他人を差し置いてでも自分自身が積極的に取りに行かないといけない義務がある。
だって自分が絶対的に超絶的に爆裂的に一番なんだから☝️✨(←言い切る💦)
ここを信じなきゃ、審美眼に足るモノなんて生み出せる訳ない。
絶対誰にも負けたくないし、自分にも負けたくない。
改めて思う。
自分が最も欲しいものは、商業デザインではなくお金でもなく、「美」なんだ。(←これこそヴィジュアル系!?)
私の「美」の定義は、「リアリティ」だ。
その作品を享受した人の感覚や感性を揺さぶり、「どん!」とした大きい抵抗体を残し、非日常的で神秘的な空間に一瞬誘われるものだと思う!(注:プロフェッショナル仕事の流儀ではありません🙏)
でも展示内容は内緒にしておこう🤫!(←そういうとこ💦)