中2高2松江塾【初代公認】ママブロガーレモネードの徒然記

松江塾中2男子・松江塾卒高2男子のママ、レモネードです。日々の記録や思ったこと感じたことを徒然記していきます。

【学ぶための契機②】母集団について考える

こんばんは⭐️レモネードです。

今日はちょっくら買い物しにららぽーとに行ってきました🚗

お土産にビアードパパのシュークリームを買いました✨✨✨

改めてカロリーを見て、ヤバいモノを買ってしまった事に気がつきました😱💦

 

今回は、以前から書くと宣言しておりながらそのままになっていた、

蝸牛ちゃんの記事を受けての

「学ぶための契機について考える」第2弾!

母集団について考える!を考察したい、と思いました🫡✨

 

蝸牛ちゃんの4部作の記事↓

kagyuchang.com

kagyuchang.com

kagyuchang.com

kagyuchang.com

 

私の前回の記事↓

lemonade-blog.online

 

 

お暇な方はお付き合いくださいませ!

 

蝸牛ちゃんは「勉強のPPも大事だけれど勉強以外で自分の芯になるものがもっと大事」シリーズを第4弾まで追求していて、そら豆くんの今後についての実践も含めて、考察・検討・実践していてすごいな✨と拝見しました。

 

私は蝸牛ちゃんの言う「母集団」についてだけピンポイントで考えてみたいと思い、記事化してみました。今回も私の個人的な見解を書いており、蝸牛ちゃんの考え方とは違う部分も多くあるかもしれませんが、その点はご容赦ください🙏💦

 

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母集団とは統計学でよく使われる語句らしい。

ja.wikipedia.org

調査対象となる数値、属性等の源泉となる集合全体を言う。統計学の目的の一つは、観測データの標本から母集団の性質を明らかにすることである。 

 

偏差値70の集団(学校)、偏差値60の集団(学校)、偏差値50の集団(学校)、偏差値40の集団(学校)、、確かにそれぞれに違いがある。

 

「偏差値70の母集団」と一言で言っても、、

 

同じ偏差値70の学校でも都心の中高一貫私立高校(A校)と地方の公立高校(B校)では、全く違う。

学力や進学率だけで見るだけでなく、多くの項目で見てみると、偏差値と呼ばれるものがごく一部的な判断である事が見えてくる。

 

 

親単科の東大生A君が都心の中高一貫校卒の大学生は同じ東大でも「どこでもいそうな雰囲気」の生徒で、地方から頑張って入った子の方が「いわゆるガリ勉型」の生徒が多い雰囲気だと語ってくださっていたが、

 

まず都内の中高一貫校卒の子と地方公立卒の子とは、学校の成り立ちが違う(私立と公立)し、イベントに対する熱意も違うだろうし、学校で授業を担当する先生も全く違う。

さらに学校内の各生徒個人の進学先の希望がバラバラであればある程、他の偏差値70の高校との母集団同士では簡単には比較ができない事に気づく。

 

 

しかし蝸牛ちゃんの記事の動画で中室さんがおっしゃっていたようにどんな母集団であれ、そこで上位を取る事は本人にとってプライドポイントを上げる事になるだろうと思う。

学校生活は、偏差値や学力を競う場だけでなく、スポーツや運動を競う場でもあり、人間と人間が出会い触れ合い、意見を交わし価値観を共有しあったり、人間関係を築いたりする場だ。そこで勉強が上位に入る、という事は本人にとって一つの自信になるかと思う。

 

 

ただ、母集団とは生きている人間で成り立っている集団であるが故に、

母集団自体が生きている。

 

そこには学力がだけでみると、成績が高い子が落ち込んだり低い子が爆上がりしたりといった事もあるが、文化祭での経験が生きて急にシェフを目指し始めたりする子、日本が嫌になって海外に留学を希望する子、急に不登校に陥る子、バリバリの体育会系がボランティア活動始める子、、もう様々だ。

 

学年によってもカラーは違うし、当時の受験システムで集まる各学年の生徒達も変わってくる。

 

東大も一般人には東大は東大としてかなり普遍的に認識されるが、70年台の東大、80年台の東大、2000年代の東大、2020年代の東大、同じ大学(母集団)とは思えない程の💦変容ぶりかと思う。

 

さらに言ってしまうと、この変容は一個人のもっとミクロな場にも言えて、

昨日の自分と今日の自分、、、は既に違うと思うんだ。

 

 

母集団の中でそれぞれの個人の変容が起こるとどうなるのか?

まさかあの偏差値70の高校が!?とめちゃくちゃな事が起こる。

母体は偏差値70のまま、それぞれの人生が交差する。

 

ただ自分の個人的な見解から考えるとこの振れ幅は、私立高校よりも公立高校の方が大きいように感じるんだ。

 

母集団の統一性を常に阻害し続ける母集団。

 

私はこれこそ集団に対しての個人の徹底的な侵食だと思うし、

母集団が母集団たる最も革新的なリアルタイムで進化している集団であるとも捉えられるし、

こう言った土壌から個性の力が育つ土壌になるのではないかと思った。

 

なので、私の結論は、

結果(進学先)より過程(どれだけ学校生活を楽しんだか)が大事だと思う。

 

なぜなら同じ東大に進学した都心中高一貫のよくいる男子A君、地方公立高校のガリ勉型B君、大学の成績が何かしら関係があるとすれば、「どちら(の学力)が上位か?」というよりも

それ以上にいままでどういう経験をして生きてきて、今現在どういう内容に興味を持ちどういう研究をしどういう活動をしているのか?

という事の方がずっと価値がある事ではないかと思ったからだ。

 

学力というヒエラルキーがゼロになる場所、そこが大学かと思う。

 

もちろん最近は卒業も課題も以前よりハードになったし、人気のある教授の研究室による優劣などはあるのかもしれない。

 

大学の場こそそれぞれの目指すものは千差万別異なるだろうし、まずそれぞれが比較対象にはならないで、むしろ自分というヒエラルキーの構築する場だと思うんだ。自分探しのきっかけは自分の感覚・興味に素直になる事がとても大切な事だと思う。

 

実は私は、元々不登校でとても優秀なのに「頑張っているのに大学についていけない」という学生の相談に乗った事がある。

彼が常に他人からの評価や他人軸で自分を見て生きている事に気がついた。

 

自分の価値は自分で決めていい。

 

彼だけでなく今悩んでいる大学生がもしいたら、伝えたいと思う。