こんばんは⭐️レモネードです。
若い人のSNSでよく出てくるランキングワードの一つに
「無理」という言葉がある。
この「無理」という言葉を様々な形で多様に扱う若い人が多い事に気が付く。
私もたまに使う。
「学校、無理〜💦」
「仕事、無理!」
といった切ない差し迫った使い方をしている人もいれば、
「推しのあの角度、無理過ぎる✨」
のように好きな憧れの人に対してポジティブな使い方もしている人もいる。
また「無理ゲー」と呼ばれるような新語で、
「難易度の高い超えられない壁やレベル」という使い方をしている人もいる。
元の意味は、
「理に叶わない。物事の筋道が立たずに道理に合わない。」
という読んで字の如くの意味がある。
若者は「無理!」と自分に言い聞かせる事で、
自分を制御するように思える趣があり、
ネガティブな使い方であれ、ポジティブな使い方であれ
「自分のキャパを超えている」
というニュアンスを感じる。
自分のキャパオーバーという意味で考えると、
無理を多用する若者のの多さは、
ある意味「器の小ささ」を表しているのではないかと考えてみた。
「男なら簡単に弱音を吐かずに、限界まで耐えろ!」
という昭和のスポ根精神とは打って変わって、
「あ、もう無理ゲー。」とか「詰んだ」とか。
一度言葉にする事で新たな局面に抜け道がないかを探す。
見方を変えると「区切り」の一つのようなアクションのようにも思われた。
私はデザイナーになる前、ニーとピーが幼稚園に行っている間だけ車で20分位の精肉工場で短時間のパートをしていた事があった。
個人的に精肉自体に興味があり自分から希望をした。
包丁を研ぐ事から習った。
そこに東南アジアから多くの外国人労働者が同じように働いていたが、
どんな重労働でも弱音を吐かずに黙々と働き続ける彼らにとても感心した。
彼らから「無理です」「できません」という言葉を聞いた事がなかった。
職場でも彼らはとても重宝される存在だった。
日本人の新入社員(正社員)よりもずっとひたすら寡黙で我慢強い。
おそらく彼らの出身国では当たり前のように日々我慢や忍耐をしているように思われた。
精肉工場のように自動化やAIの存在にもしかしたら仕事を淘汰されるような第二次産業の現場では、既にキャパが小さい日本人は、外国人労働者に比べて「使えない人材」になりつつあったのだ。
もう一度、若者の「もう無理!」に立ち返る。
それはキャパだけの問題だろうか?
「私にはもう無理なんです。」
「私はもうダメなんです。」
そこには「私なんて!」というメッセージが込められている。
私はそこに日本人特有の「謙譲」の精神を見出した。
また「推し」に対して
「無理過ぎる〜!」
という表現も自分を謙り、相手をより高い位置に押し上げるような、
日本人特有の尊敬と謙譲の精神を感じるんだ。
自分をできるだけ小さく小さくする。
小さい器の水はすぐに溢れ、
「もう無理〜!」現象が起こる。
キャパオーバーしながらもそれでも自分を出来る限り小さく捉える事で、
彼らは彼女らは、何から自分を守っているのだろうか?
それとも自分を大きく出す事で「イタい。」と思われる事を回避しているのだろうか?
キャパを小さくする事は自己防衛のための「鎧を纏う」事と同じ事だと思ったんだ。
ただでさえキャパが小さいのに、さらに重い鎧の防具を身につけている。
推しは好き。でも学校(仕事)は無理。
無理の意味に立ち返る。
「理に叶わない。物事の筋道が立たずに道理に合わない。」
もう既に彼ら彼女らにとって学校も仕事も社会も
理に合わないものになっているのかもしれない。
実際にそういう若者はとても多いと思う。
緊急課題ではないかと。
多かれ少なかれ、たとえ元気に学校に登校していたとしても。
この視点から、ではどうすればこの恵まれた日本の環境で
「もう無理!」にならない子育てをするのか?できるのか?
考えてみる必要があるように思った。