こんばんは⭐️!!
中々最近、皆さんの記事が読めなくて追えなくて、ごめんなさい🙏💦
時間のある時に、改めて読みに行きますね!
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親単科「国語力について②」をようやく受講しました。
真島先生のお話で私が印象に残っている言葉は、
「教科書に載っている文章は『大人向け』に書かれたもので、元々は決して『子供向け』に書かれたものではない。」
というお話。
考えさせられた。
国語の授業の「読本」とされる教科書。
中学生はもう既に大人を対象とした文章を読んでいるのだ、という点を改めて認識する事ができた。
中学の国語の教科書は、小説、詩、随筆、説明文、古文、漢文、短歌など多くのジャンルで溢れているが、
ほとんどが一部分である。
編集者が、意図して「ここの文章はマストだろう。」という部分を切り取って掲載されている。切り取られた箇所で、内容も受け取られ方も大きく変わる。
あるいは「ちょこっと食べ」のビュッフェみたいなものなのかもしれないと、
そういう危うさを秘めている点を思い出した。
そして、その文章を書く筆者達の想い。
おそらく各筆者達は、それぞれ「読んで欲しいターゲット」が想定されているはずだと思った。
中1の教科書に掲載されている「大人になれなかった弟達に…」の作者は、もちろん中学生や若い世代に読んで欲しいという気持ちもあるかと思うが、自分の体験した過酷すぎる戦争体験を言語化して、出版する事で一体誰に何を伝えたかったのだろうと考える。平和への祈りや政治的な側面も考えられるし、ただ自身の経験を書き出す事で、懺悔して精神的な部分で自分を保とうとしているようにも捉えられる。解釈は多様だ。
筆者の気持ちにどこまで寄り添えるか(文脈を読む)が、読解の鍵である点を思った。
もちろん、小学校出たての中1がどこまで知っているのか?
・筆者の生きてきた時代背景
・戦争の背景にある政治的関係や国の方針、当時の世論
・筆者の暮らしぶり、経済状況
・戦時中の環境下で小学生だった筆者の心持ち、感情
などなど知っていればいるほど感情移入でき、文脈を正確に捉えながら読むことができる。
しかし、今の平均的な中1はそこまで知るはずもないだろう、と思った。
そして、よく「まんが昔話」の題材にもなっている「宇治拾遺物語」。
「今は昔〜」から始まるこの物語は、誰が誰を読者の対象として書いているのか?
各ローカルな地域に伝承される物語をここまで集めたのだから、電車も車もない時代に編集する事も大変だったのではないかと想像する。
この文章は現代社会を生きる大人もうまく読めない。
古語で書かれているし、意外と文体の骨組みだけで、内容だけ書いて、あとの装飾的な部分は自分で想像してくれ!的な作りになっている。
しかし、この物語を編集した筆者には、強い想いがあったはずだ。
もしかしたら、当時から昔を生きる人達への懐かしみや憧憬を次の世代にも伝承できるように記録に残しておこう!という気持ちがあるのではないかと思い馳せる。
それ以外にも色々な意図があったのかもしれない。
書く事で「ターゲット」に届けたりあるいは、何かを意図していたり、その文章を書いた筆者の気持ちをどれほど汲み取れるかで国語力は決まると改めて思った。
私たちブロガーも、「一体誰に向かって、誰をターゲットとして、何を意図して、何の目的で何を書くのか?」という問いに苦しめられることがある。
この点がはっきりしている人は、迷うことなく既に書いていることだろう。
もし国に政治に対して自分の意見で世論を促したいと強い思いがある人は、SNSも通して拡散されるように画策するのだろうし、それぞれの研究の業界に新たな意見で一石投じたいと言う人は、影響力のある専門の雑誌に掲載されるように意図することだろうと思う。
現在、文字や言葉がどれだけ力を持つのかは分からないが、
前段階としてその文筆という武器を片手にあがく人達の気持ちに、その意図するものに寄り添う気持ちが持てるだけの思いやりや共感力を持つ事ができなければ、
子供が根本的に読解力を持つ事は難しいのかもしれない、と思わせられた。
そういう意識のある子は、文字を書く前に同じ志向を持つ子とまずはグループやサークルを作るはずだ。
そしてそこから友人同士でどんな会話が生まれるのか?
ただ残念なのはうちの子二人が所属するサッカーでは、「いけ!」とか「よし!」とか「いいぞ」とか、良くても「切り替えてこう!」位だ。
だからぜひともサッカーの戦略会議でもしてほしいのだ。