土曜日にとあるセミナーをオンラインで受講した。
あまり名も知られていない戦後の美術評論家の評論についてだった。
買い物がありやむなく30分遅刻の受講💦
しかも土曜日でピーを塾に迎えに行くのでディスカッションの最後10分は聴けなかった。
が、内容は中々難しいものだった。
この評論家の下調べもあまりしていなかった。
PDFで予め印刷した受講内容にあった
この評論家の言葉
プロレタリア的人間の物質直感の宇宙性
この言葉が私を苦しめた。
噛み砕いた話があったが。
ここの部分の理解が難しかった。
ピーが塾から帰宅して、不思議そうにこの印刷物を読んでいた。
帰宅中の車内でママも今日セミナー受講で勉強していたんだよ!と話していたので、ピーはこれかーと見ていた。
ピーにはどう映るのか?
怪しい文書に見えたかもしれない。
日本の戦後の政治や状況について想いを馳せる瞬間があったので、
改めて考えた。
勉強する事って何だろう。
そこには偶然的でなく必然的な契機が必要なのではないだろうか。
〇〇大学の〇〇学部の〇〇教授に是非とも学びたい。
また政治的なエネルギーだ。
ここに依存する限り選択すべき進路は限定されるはずだ。
進路をなるべく広範囲で選ぶ為に偏差値を上げよう、という流れは本末転倒なのかもしれない、と感じた。
進路は始めから限定されるべきなのだ。
自分こそこの進路にふさわしい、ここにこそ行くべきだ、と。万が一落ちても最低ここ。ここの大学には絶対行かない。
もしかしたら進路の限定は大学生が大学生たらんとする唯一のパスポートかもしれない、と思った。
現在は高校は中学の延長のように考えられているが、
『高等学校』だ。
元々高等学校に行くべき人は学びたいものがあってこそ行くべきだと。
大学はさらにその上にある。
学ぶものがなくしてなぜ行こうというのか?
その意欲をその信念を学校生活のあらゆる経験や書物から自分で学んでほしいんだ。
上記を踏まえて自分は勉強向いてないと思うのであれば、鮮やかに身を退くべきだとも。
現代に子供にこれを望む事は多くを強いていると呼べるのだろうか。