気がつけば、2ヶ月放置………
すっかり不定期更新となってしまいましたが、まだまだ一応ブログは続けます(宣言)!レモネードです。
しばらく落ち込んでいました。
タイトル通り、ピーがサッカー部の総体へ向けた練習中に腰を痛めてしまったのです。
この状況が私にとってかなり辛いもので、
ピーにとってはもっともっと辛く苦しいもので、
ようやく今、回復に向けて動き始めて現実的に捉えられるようになったので、ブログで吐き出そうと思います。
ピーと腰の関係はピーが小学校3年生までに遡ります。
当時ピーは強豪と呼ばれるサッカーチームに週6で通っていました。
毎日電車に乗って通い、帰宅はコーチが送ってくれても11時帰宅。
ピーのポジションはボランチ。ひたすら馬力のあるフォワードのボールを時にレスリングのように奪い取り、ひたすら前線(攻撃陣)にボールを送り続けるという任務が課されていた。
対人プレーやフィジカルが強かったピーは「壁」のようだった。
サッカーのコーチ達はピーという「壁」をより前の方(ディフェンス陣よりも前方)に置く事で、よりチャンスボールを作るという作戦でピーを使ってくれていた。
フォワードの選手の精魂込めた爆撃シュートを左足で普通に止める事もザラにあった。
考えてみれば、股関節の柔軟性も低かったピーが腰椎の疲労骨折を起こしてもおかしくない状況だった。
小3の冬に整形外科で腰椎疲労骨折(ピーは足が左利きなので右のみヒビが入る)と診断。
小4の1年間は全ての運動禁止を言い渡された。
その1年間は苦しかった。運動ができないピーは荒れた。
その後頑張った甲斐があり、小5になる前には骨癒合が実現した。
ただまだ弱いので、激しい運動は避けるように言われていた。
その間にもサッカーチームのコーチから(それ以前から)チームに戻るような連絡を受けていた。ピーも戻る意志があった。「やれる範囲で練習させてください。」とコーチに念を押しチーム練習に参加したが、1年経ったチームはより激しさが増し、一皮も二皮も剥けた強いチームに変わっていた。
ピーがチームに戻れるように近隣の多くのリハビリのある整形外科、整体院、接骨院、ひたすら周り腰の様子を見ながら親子で通いながら、小5はチーム練習にできる範囲で参加した。
ピーの小5の夏休みは松江塾の中3生よりも休みがなかった。サッカーの遠征や試合、練習でお盆以外のスケジュールは埋め尽くされていた。
そこでとある遠征でコロナにかかったピーは一気に体力が失われた。
そこで我に返ったピー。サッカーチームを辞める決意をした。いままでチームメイトやコーチへの気持ちがありなかなか辞める決意ができなかったが、
腰の痛い俺のパフォーマンスには限界がある。
とコーチに自分から話しチームを辞めた。
親ならもっと早く辞めさせる事が腰のためにも大事だったかもしれないが、そこでピーは限界までやり切ったのだと思う。
サッカーを辞めたピーはちょうどW杯でお祭り騒ぎだったにも関わらずサッカーすら見ようとせず、また心ここにあらずの状態が続いていた。
そんな状態を心配してくれたクラスメイトの友達とそのお母さんと話す機会があり、初めてお友達が通っている「塾」という言葉を聞いた。
「塾」全く考えてもいなかった。自分の小学時代は塾に通っていたにも関わらず兄のニーですら行かせてもいない。
それどころかサッカーに通っていた時のピーは週6、23時帰宅だったので宿題すらやる余裕もなく、そこで松江塾に出会わなければ、底辺校一直線といってもおかしくない状況だった。
そんな優しい友達とお母さんに紹介してもらい、ピーが松江塾に入塾したのは小5の秋(10月頃)だった。
その後相変わらずサッカーは見たくないピーの心をまたサッカーへ向かせてくれたのは、クラスメイトやサッカー友達だった。チーム練習のないピーを放課後小学校のグランドの草サッカーに誘ってくれた。ピーは週2の松江塾と草サッカーでちょっとづつ元気を取り戻した。
小5の秋〜小6卒業まで強度の高いハード練習は避け、草サッカーを楽しみ、残り時間は勉強をしたピー。
中学入学時には、顧問の先生にもピーの腰の話を通して部活ならできるかもしれないと妙な自信があった私。
先日の総体ではレギュラーで出場できると意気込んでいた矢先、やはり腰椎の痛みが再発し、しばらく続く状況になってしまった。
顧問の先生と話し合い、通常の体育や学校行事に支障がない形がベストであるという点を考えてもらい、部活の練習はしばらく見学、土日の試合も見学という形になった。
ピーはまた荒れた。サッカーを辞めた時の心の傷もおそらくあると思う。高ストレスの状態が続いた。私はまた顧問の先生と連絡を取り、ピーの腰の状態や疲労骨折であることから、強度の高い練習や継続的に続くと症状が出てきてしまう内容も伝えた。ピーと何度も「自分のサッカー人生に未来はない」「部活もおそらく無理」と悲観した言葉を呟いていたピーだったが、「でも部活は辞めたくない」と続ける意志がある事も伝えた。
以降顧問の先生はピーの状態を気遣ってくれつつ、腰を痛めない程度、だけどピーのスキルもちゃんと上がるギリギリの練習をピーにさせてくれるようになった。
ちょっとずつピーの笑顔が増えてきて、今ようやくホッとしている環境にようやく落ち着いた現状。中々私の中で言語化するに耐えず、ようやく吐き出せました。聞いてくださり、ありがとうございます。
期末テストで学年で10番だったピー。もしあの時腰を痛めていなければありえない順位だったと思う。10番でも悔しいって。テスト前ピーが結構ダラけていた事も知っている。まだまだ頑張るしかない。
しかも今週の金曜日に理系の加点テストがあるって。仕事が忙しくて動画すら見ていなかった私は一昨日の火曜日に初めて知った。「ママも参加すれば?」って。神7に入ればAKR先生のパーカー貰えるかもしれないんだって。
えええーーー!!!!????
そして昨夜、ピーと一緒に寝ると社会の授業の話でてんこ盛りだった。
「縄文時代の別名ってわかる?」とか
「宗教よりも数学や論理学の発達の方が早いよ」とか結構高尚(?)な話ができた。(普段はこんな話しておらず💦「は?」とか「へ?」とかしかしゃべっていない💦)
そしてママお得意の三蔵法師の話をした。めちゃくちゃ達筆の漢字や集中力が途切れない巻物の話。
そして、「三蔵法師が松江塾の加点テストをすることになったら、試験範囲何周するか?」という話題になった。
ママは即答!「おそらく300周☝️!」
ピー「まさか、300周はないでしょ?」
でも三蔵法師ならやりかねないと思っている。
テスト範囲を300周したら何が起こるのか?
問題の内容ももちろん暗記してしまって、数字のみ変えた問題は容易に解けるだろうね。
でもそれだけではない!
300周もしてしまったら、問題の内容を超えて自己アレンジ始めちゃうのではないかな??
この問題こうしてみよう!とかこうやったらもっと相手の意表を突く問題になるんじゃない?とか。
そんな話で終わった。
ちなみにピーはまだ1周しかしてない💦今日が勝負だねー😂