私立受験のメインとなる時期がもうすぐ終わろうとしている。
ニーは、その私立高校の過去問を以前からせっせと解いていた。
そして受験前日、過去問の内容を見た私は
「なんか面白そうだね〜!」
と言った。
ニーの勉強内容に介入する事は今までなかった。
ニーは勉強以外の事に関してはとても聞き分けの良いのだが、
今までチャーや私や他人のアドバイス(スケジュール管理、勉強の仕方、ここのテキストのここをやるといいといったもの)を聞き入れた事が一度もなかった。
聞き入れないのではなく、自分流にしかできないのである
事に気がついたのは、だいぶ後になってからだ。
ある意味、芸術家気質というか職人気質だったのである(表面は全く柔軟に受け入れOKな感じなのでわかりにくいのだが)。
それ以降、私は基本ニーの勉強への介入はしなくなった。
本人も強くそれを望んでいるし、上記を私なりに解釈してからだ。
ニーの道はー長いスパンで見なければならないものだし、先人の意見を聞かずに自分流に進むのである限り、失敗も多いだろうし、無の状態から作り上げなければならないー道は、険しいだろうなと思っていた。しかしニー本人がそれを希望した訳で、人生中盤位にはオリジナルを作り上げられるのであれば逆にすごいと、そう言う視点で見る事にした。
そんな中、受験前日、ニーから「ママも解いてみる?」とひょんな話があったのだ。
普段、松江塾にいるニーが受験前は感染対策のため在宅する機会だった事もあるかもしれないが、ニーと勉強を共有するある意味最後のチャンスかもしれなかった。
私立高校の過去問対決してみた。
国語と英語のみ対決してみた。
当たり前だが大人の私の方が勝った。
ニーも何とか自分で設けた基準はクリアしたようだった。
そこで初めて私は知った。ニーは普段こんな問題を解いているんだ、と。
ニーから初めて国語の読解の「論説文」が苦手なので、ちょっと教えてくれないかと聞かれた。
以下は論説文に関して私なりの攻略法だ。
偉そうに書いてしまったが、個人的な見解を率直に書かせてもらった。
論説文を読むときは、まず「疑って読む」事、また「反対意見を常に念頭において読む」事が基本姿勢だと思う。例えるとボクシングの「お前いつでもかかって来いよ!」のファイティングポーズで読む事だ。ディベートの相手方の意見(ちょっと長いが)として読むのもいいかもしれない。
何を疑うかというと、
本当にこの著者は、この論説文で「真実」を伝えているのか?
という点だ。
・提示されたデータは信頼できるものなのだろうか?(偏った人100人へのアンケート等ではなく、相当な人数にランダムに取ったデータか?文献の出典元など)
・理にかなった事を言っているか?(数学の証明のように答えが導かれているか?)
・その答え(著者の考え)は本当に自分の頭で考えて「真実」だと思えるものか?
まず初めに「真実」とは『万人から見て「客観性」を帯びたもの』だと思っている。
先に言うと、一個人で万人から見て完全に客観的な文章が書ける人は存在しない。
一個人である限りある程度の主観的意見は免れないからだ。
しかし、ある程度『万人から見て「客観性」を帯びたもの』である前提がない論説文は、論説文であるより随筆やエッセーと言えるものではないかと思う。
そこを見抜けない限りは論説文は読めないと思った。その事をニーに伝えた。
なぜなら今世の中に溢れている文章は、うまい具合に語句を扱って「真実に見せかけている」文章が多いからだ。その語句の扱い方は巧妙だと感心する程だ。
「この人面白い事言っている!」と言われる文章。視点は斬新かもしれない。
でも果たして「真実」か?「真実」は無理だとしても「万人から見てある程度「客観性」を帯びたもの」か?
そこを見極められるかは、論説文でとても重要だと思った。