ニーもピーも反抗期に入った。
ニーのスマホはいつの間にかパスコードが分からなく設定されていた。(やばい💦今日聞かなきゃ!)
しかしそれでもニーの反抗はまだマイルド。
マイルドだが、こっそり親の監視下の境界から脱走を企てているような面倒なタイプの反抗だ。
ピーは分かりやすい反抗。いかにも!な、外で話しかけると「は?ほっといて。」とか言われるような心にブッ刺さる反抗。
しかし皆さんのコメントを読んで本当に戦わなくてはならない相手は、デジタルデバイスである事(心で分かっていながらも)を再確認した。
でもそういう自分も幼少期からデジタル環境に染まっていたようなタイプだった。
難しい。本もKindleで読んでいるし、テレビを見るより自分の興味のある動画配信の方が面白い。
そこで思い出した。
半年前くらいに、とある近隣の小学校が創立100周年記念のセレモニーが開催されるという事で、ピーは地元の伝統芸能の演奏で参加することにした。私も保護者として付き添い。
セレモニーの催される体育館では市長さんや教育長さんがありったけの気持ちを込めて祝辞のお話を述べられた。
その後スクリーンが降りてきて小学校の歴史について映像にて説明がされた。そこでその小学校や私たちの住む地域の昔の環境を学ぶ機会を得た。
その小学校が創立した頃、ピーの小学校は
なかった。
さらにその小学校の前身である小学校の場所や、写真を見る事ができた。
最終的に茅葺き屋根のまんが日本昔ばなしに出てきそうな写真に行き着いた。
確かそこは、地域でよく見かける
寺だった。
ちょっと待て。明治初期、この広大な地域に対してその寺しか勉強する場所(小学校)はなかったのだ。まさに寺子屋って奴だ。
ピーの小学校ができたのはそれから考えると最近のようにも思われた。
この辺の子達は大方農家の子で、勉強したい子はその遠い遠い寺子屋に通うしかなかったのだ。
その時の情景が浮かんだ。
「かあちゃん、僕もお習字習いに行きたいよぉ。」
「何言ってんの。もうすぐ田植えの時期だよ。あんたがいなきゃ困るよ!」
今のように田植え機も農耕用の機械もなく手作業の時代。
字を習いたくても習えない子達。
運良く寺子屋に通えた子はもちろん「本」が娯楽になるはずだ。そしてその情景。
「あんた本ばっか読んで!父ちゃん母ちゃんの手伝いしなさい!」
「ごめんなさい。つい面白くって。新しい本がほしいな。」
「そんなお金はないよ!」
「そうだ。〇〇町の貸本屋で借りてこよう!」
今思うと考えられない。「本を読みなさい。」などと言われる時代が来るとは。
そして、今、私がニーとピーの時代に生まれて、
もし自分の部屋が持てて、もし自分のベッドの前に液晶テレビと最新型ゲーム機が置かれたら、たぶん、
勉強どころか学校にも行かなくなると思った。
仮想空間では思い切り空高くジャンプもできる!魔法も使える!ボスキャラだろうと工夫すれば倒せる!(ように設定されている)泳げる!木登りもスイスイだ!ダイヤモンドの鎧だって身軽に着られる!
ところが現実世界はどうだろう?体は重い。逆上がりはできない。重力が重く感じる。親にあれこれ言われる。ご飯がいまいち(ありがたみがわからない)。学校行って文字書いたり勉強をしなくてなならない。空飛べない(当たり前)。友達とのリアル関係(イキったりなんだり、嫌われないようにはみ出さないようにしたりなんだり)
マジだりー( ̄^ ̄)ゞ!!!
行かなくていいなら全然いいじゃん。普通に学校やだよ。となると思った。
だって現実世界が自分にとって仮想空間で、こっち(仮想空間)の俺こそ本物の自分なんだからね👍✨
ベッド前にゲームあったら、夜明けまでやるよ。だって親見てないもん。
昼間眠いよ。もちろん寝不足で学校、とても辛くなる。
さっきの農家の子供の
「かあちゃん、僕もお習字習いに行きたいよぉ。」
「ごめんなさい。つい面白くって。新しい本がほしいな。」
この差はなんだろう。娯楽の変化。生活の変化。環境の変化。
最新技術に勉学の世界が侵されつつあるのと言えるとも思った。
でもデジタルとは生活上中々切り離す事が難しい現実。
しかしそれでもやはりデジタルデバイスと子供との関係は慎重にしなければと、
戦わなければならない
と思った。