レモネードです。
沢山のママブロガーさんやボネ子先生の教育や勉強への根本的な取り組み記事を読み、刺激を受けています。
私の中では、明確な勉強に対する答え、教育に関わる答えや信念を持つ事に抵抗がいまだにあります。
「なぜ勉強をしなくてはならないか?」というピーへの問いも学校の起源から探ったもののまだ自分の中で答えにはなっていません。
でもやはり、ここは言語化しないと前に進めない気がして、本日のテーマにしようと思いました。
また夫(チャー)には、ある程度教育への信念があります。
ただこの事を松江塾のママさんに向けて書く事に抵抗があったので、中々記事にできませんでした。あくまで個人的な信念として捉えてもらって良いかと思います。
そして答えのない私もチャーの影響を受けている事は確かです。
でもどれが正しいかは本当にまだまだ開拓中です。
チャーは、塾へ行く事に反対の父さんです(爆)
実際にニーが松江塾に入るまで、塾に行った経験はありませんでした。
さらに実は習い事も良くは思っていません。
そういう考え方もあると思ってもらえたら嬉しいです。
チャーの考え方は子供へのバイアスをできる限り取り除こうとするものだと思います。
習い事や塾もそうですが、ある意味バイアスで、
「レールに乗せている」と考えているようです。
もちろん人にはみんなそれぞれの考え方や思想、価値観があり、親から子供へのバイアスをゼロにする事は不可能です。
ですがチャーはなるべくバイアスをかけないで子供にのびのびできないかと考えています。
元々チャーは子供の学歴に対して照準を置いておらず、
社会に出て自立して、懐の深い人に育ってほしい
メンタルを病まないように強い人になってほしい
と願っています。
その「懐の深い」と「メンタル病まない」がノーバイアスと繋がっていてかなりの難所なのです。
チャーのいうノーバイアスとは、以下のような昭和の子供時代にはよくある光景です。
子供が学校から帰ってくる →時間を持て余す(習い事や塾がないので) →自転車で外に行く→誰か(友達や近所のおじさんなど)に出会う →ストーリーが始まる。
ここで子供が能動的に働く事を阻害しないでほしいと。
自分で、自分の心から誘発的に外に向かって、偶発的に誰かに会って、物語が始まる放課後を大切にしてほしいと。
知っている子なら「おーい!遊ぼう!」と。見知らぬ子なら「(見ない顔だなー)どっから来たの?」と。どうやって遊ぼっか?「そうだ!こうやって遊ばない??」といった工夫やコミュ力を養う場だと。そして意見が合わない時の喧嘩。そういう場を親が用意しないでほしい、自分でみつけてほしい、と。
ただ現在、子供はみんな習い事や塾で、そいういった場が少なくなった事、また「近所のおじさんに出会う」も不審者対策でやはりそういう場が少なくなった事を嘆いています。
チャーは学校の先生(公立)で、良い大学に進学する生徒もそこそこの大学に進学する生徒も沢山見ていて、思う所があるようなのです。
出された課題はしっかりと提出できる要領の良さ。
しかし人間としてどうだろう?
たとえ高学歴になり良い会社に就職して、それでいいのか?
この子の人生本当にそれでいいのか?
個性があるはずの生徒達。
指示待ち人間になっていないだろうか?
と考えているようなのです。
でもママブロガーさんの記事を読み、
ゲームやYouTubeを限られた時間にして、本を読む習慣も大事にしよう!
と思いました。
真島先生、ボネ子先生の記事を読み、
バイアスも子供に肯定的に働くように変える事もできるのではないだろうか?
と思いました。
またバイアスの遮断に徹するだけでなく、
色々なバイアスを受けまくる事でノーバイアスを目指す
という考え方も。あ、これ選び方でめっちゃバイアスかなー??
勿論、チャーの意見も
一つのノーバイアスというバイアスである
事は把握しているつもりです。
だからこそ、
混乱しています!!
自分こそ信念がない「根なし草」のような母親かと。
でも言語化した事で少し整理できたのか?な??