おはようございます。
レモネードです🍋。
思いついた事を徒然なるままに書いています。
ひとまず、昨日の記事、気づかれた方はいらっしゃるでしょうか?
初稿と最終稿の内容、全然違うやんけ!
私の初稿は、日本語めちゃくちゃ、文字間違い、よく分からない言い回しなど多く、
さらに前回の記事は個人的に部活への思いも強く、結構削除したり、加筆したり、
最終形態(最終稿)はよく分からない文体になってしまったように思う。
自分の悪い癖で、
「一筆入魂」が中々できない
ちょこちょこ加筆して、パッチワークのような文体になる
これは文章に限らず、仕事のデザインにも子供との会話にも当てはまっているように思う。
なので、書道家の方や一瞬でキャッチコピーを考える人、真島先生や斉藤先生のようにライブで一期一会の授業を成立させる方々を
プロフェッショナルだわ〜
と思う。
「子供との会話でママが言ってる事全然違う」問題は皆さんの記事を拝見し、かなりやってはいけない事が分かってきたので、後日考えることにします💦
そこでたまたま調べたくなった。
推敲とは何か?
確か故事成語だったよなー。昔「国語便覧」に何か小話載ってたよなー。
以下です。(Wikipediaより)
推敲(すいこう)とは、文章を何度も練り直すこと。
唐代、都の長安に科挙(官吏の登用試験)を受けるためにはるばるやってきた賈島は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧は推す月下の門」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」という語を思いついて迷ってしまった。彼は手綱をとるのも忘れ、手で門扉を押すまねをしたり、叩くまねをしたりしたが、なかなか決まらなかった。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の行列がやってきたのにも気づかず、その中に突っ込んでしまった。さらに悪いことに、その行列は知京兆府事(長安の都知事)、韓愈の行列であったため、賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に引っ立てられた。そこで彼は事の経緯をつぶさに申し立てた。優れた名文家であり、漢詩の大家でもあった韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬(韓愈)とロバ(賈島)を並べていきながら詩を論じ合った。
このことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という
中国、唐の時代、「僧は推す月下の門」という自分の詩の一句を「推す」か「敲く」(たたく)かで迷っていた賈島さん、ロバの上で押したりたたいたりジェスチャーしてたら、長安の都知事の御一行に突っ込んでしまう。都知事が韓愈さんで良かった✨賈島さんと韓愈さんで詩の議論をする。
この詩で推敲は3回行われている。
①賈島さん月明かりの下で僧が門を「推す」(押す)?「敲く」(叩く)?で迷っている。
迷うということは、やはり一発で言い切れない。どのような言い回しが良いのだろう?と考える。
②迷ってたせいで、長安の都知事御一行にぶつかってしまうが、ここで賈島さんはきちんと「詩を考えていた」と事情を説明。都知事の韓愈さんの心の琴線に触れる。
これは中々できないことだと思う。
そして自分の文章の迷いを誰かに話す事。これも一つの推敲だと思う。
例えば、私の車が、東京都知事の御一行の車に当ててしまって、都知事に「すいません。この詩の「押す」と「叩く」で迷ってました。」なんてもちろん言えないし(言えたら逆にすごい💦)、
例えばピーが読書感想文でこういう言い方とこういう言い回しで迷っているなんてママに話せるのなら、その時点でベタ褒めレベル。
賈島さんはハプニングありきで話す事になったけど、普通文章の原段階で迷っている事を他人に委ねる事はプライドなりが邪魔して中々できる事ではない。
でも推敲の肝は、私はこの点にあるように思った。
③韓愈さんと賈島さんで、「推す」か「敲く」どちらが良いかを議論
心ある人が一緒に考える。こちらが良いだろう。いやこちらだ、と。
この言い方も風情あるだろう。いいね、それだ、と。
ここで私は推敲について大変な思い違いをしている事に気がついた。
推敲は一人でやるものではなかった。
他者の存在が必要で、そこで吟味して、推敲が成り立つのだ。
たとえ一人でやるとしてもロバと馬激突レベルの他者の視点、議論した位の他者の視点を持たなければならない。
今日の「気づき」として今後、記事を書く時はなるべく色々な視点に立って、
自分流の世界に新しい風を入れられたらと思いました!
ちょっとした小話でした。
現場からは以上です(すいません🙏💦)